完全弛緩でこそ生れる表現の多彩さ
弾くこと主体の、ピアノのおけいこをしてきた人にとって、一番の問題点が、いままで述べてきたところの完全弛緩にあるのだと思います。
弛緩の感覚は内的に把握されなければならないもので、それは「音」を主体とした教育による第一歩からの正しい習慣によって、身体が自然に覚えていくものだからなのです。
外部的に加えられた運動によって力を抜くことは、完全弛緩ではありません。
また、技術の確実さは、タッチする前の安静にかかっており、必要でない運動は、いっさいこれを避けるということが最高度の技術を得るためのポイントです。
それなのに、力を抜くためのムダな運動により、演奏をより困難なものにしていることが、どんなに多いか分らないのです。
しかも、ピアノという楽器の宿命のように、そこを特に意識させなければ必ず弾くことが先立つため、例外なくカが入り、その力に力をもって対抗するかのように指の訓練が行われるのです。
これは、重い荷物を背負って走らされているようなもので、どんなに訓練しても、身軽な人の自由さには及びもつきません。
しかもそうやって訓練してきた人は、筋肉を鍛えているので、そんな無駄な力を使っているとは思ってもいないのです。
そして、動きのパターンを身につけて、リズムにのって、かなり達者に弾くことはできますが、音色、音質の問題となると、またまた壁にぶつかってしまいます。
音による心の表現こそ、完全弛緩であるからこそ、気持がまっすぐに指先に伝わっていくのです。
完全弛緩をおいてほかに、その自由な表現はありません。