自由な表現をするために
完全弛緩の感覚を見失ってしまうと、水の流れの中に、石を置いて流れを疎外するようなもの。
気持がまっすぐ指先に伝わらないため、心のままの音を出すのに大変な苦労をするのです。
そのため、やたら身体を動かしたり、顔にまでその無理は表れてきます。
それでも満足のいく表現ができれば、弾き方など云々する必要はないのですが、大抵は、うまくいって達者に弾くだけのピアノに終ってしまい、その上の段階にのぼれないのです。
ヨーロッパやアメリカへ勉強に行った音楽学生が一様に言われる言葉は「指はよく動くが、音がみな灰色である」ということ。
これは、音への感覚、心のあり方が根本問題ではありますが、そこまで行ける人は、普通はよい感性
と音を求める心は充分もっているもの、心で欲していても、弛緩を失っているために表現できないという場合が非常に多いのです。
そのため、『技術とは力を抜くことである』と、弛緩を得ようとするのですが、長い間培ってきた奏法によって弛緩の感覚を失っているのですから、いくら努力しても、これは大変困難なこととなります。
完全弛緩でさえあれば、音のイメージによって自然に音色の変化ができるのに、ただ音楽の理解だけで弾いていくことができるのに、それが自然にいかなくなってしまっているのです。
そのため、この音はこうする、ああすると、指の当て方とか、手首の使い方、腕の重みのかけ方などを、いちいち指示を受けなければならなくなるのです。
これでは、いくら何種類、何10種類の弾き方を覚えても、それに熟達しても、無数にある心の表現はなし得ません。
また、そういった弾き方の指導によって、自由な表現、心を打つ演奏ができるわけがありません。
現在のピアノのおけいこにおいては、動く指の訓練をして力の入った腕をつくり、今度はより高度な技術のために力の抜き方を教わる、という2度手間、無駄な訓練を強いられているのです。
しかし、1度色のついたものは、2度と純白にはならないように、動きの訓練をしてきた人にとっては、弛緩の感覚をつかむことは、容易ならざることとなってしまいます。
そのため、姿勢や呼吸法による矯正や、ヨガなどによってかたまった筋肉をほぐす、ということが行なわれることとなります。
完全弛緩奏法を会得している人と、そうでない人との違いは、はっきりとピアノの音質に出てきます。
力で弾く人の音は堅く、fは騒々しく、Pに安らぎがありません。